2010年01月29日

かるちゃーしょっく?

気になるほどのことでもないと思いながらも、どうしても気になっている自分がいます。それは、気になってることがおもしろいとも、思ってしまうようなこと・・・。

私のルームメイト(非日本人)、私のお茶碗におつまみやお菓子を入れて使うんです。そのお茶碗を「ライスボウル」だと知りながら、ライス以外のものを入れることに抵抗がない、ということです。ルームメイトとはもちろん、食器類やキッチン器具系やリビングの家具など、お互いの物はシェア。その中で、一つだけその子が使用法を間違っているもの。それが私のお茶碗です。

でも、これは考えてみなくとも当たり前のこと。私たち日本人にとっては、お茶碗はご飯をよそうもの。というか、ご飯「しか」つがないもの。お茶碗の形を見ただけで、すぐに茶碗だとわかる。他のものを入れて使用したことなんてないし、むしろ他のものを入れようなんて考えもつかない。お茶碗がないときに、お汁用のお椀を代用することはあっても、お茶碗にお味噌汁はつがない・・・よね?

そういった感覚が他の文化で育った人にはなくてごくごく当然。例えば花瓶を初めて目にした人が、それを大きなグラスだと思うことだって、こっちからすればおかしいけど、当たり前のこと。それなのに、目の当たりにすると、やっぱりびっくりする。ルームメイトがお茶碗に他のものを入れていたことがまず第一のショック。そして、彼女にとってはそれは「他のボウル類と一緒に見える」ということを知ったことが第二のショック。。ルームメイトがお茶碗にフツーにピスタチオを盛ったりしているのを最初に目にしたとき、それに違和感を感じてる自分に気づいたとき、「はっ」としたわけです。

私たち日本人の「お茶碗=ご飯専用のお椀」の感覚がいかに強いか、ということ。当たり前だけど、当たり前すぎて気づいてなかったことに気づきました。。。

お茶碗にピスタチオを盛るなんて、私にとってはワイングラスで牛乳を飲むようなもの。それか、マグカップでビールを飲むようなもの?いえいえ、お猪口にソースを入れるようなもの?(気づけば例えがぜーんぶお酒関連・・・。。)

物に対する概念というのは、物を日常に使う生活の中、その生活がある文化の中で培われてゆくもの。それを改めて実感させてくれた、そんなルームメイトの一行動でした。


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2009年09月05日

オープンステージ

オースティンには、1945年からもう60年以上も続いている、黒人音楽の老舗クラブ、Victory Grillというのがある。大物では、B.B. KingやBillie HolidayやJanis Joplinまでもが演奏したという場所。ほんとに古くて汚いハコなんだけど、市からも歴史的建造物として守られていて、オースティン黒人文化の象徴の一つでもあるそう。

そのクラブに今週、知り合いの人のバンド演奏を観に行った。その知り合いの方以外はみんな50歳以上だろうと思われるおじさんブルースバンド。そのバンドが何曲かを披露し、演奏が一通り終わった後。恒例らしく、バンマスがオープンステージになったことを告げた。オープンステージとは、客席から誰でも飛び入りでバンドに参加して、ブルースのジャムセッションをステージ上で繰り広げる、というもの。

客はぜんっぜんいなかったのだけど、私達のグループの一人で、ギター歴三十年以上、あらゆる黒人音楽に造詣の深い50歳くらいの方がいて、その人が早速参加。舞台に上がって、さすがのギターと歌の腕前を披露してくれた。まさにオーティス・ラッシュな感じ。すごい。

ところが、さすがだなぁと思って聴いていたその曲が終わった後、その方がとんでもない行動に。マイクに向かって、「ステージに一人、呼んでもいいでしょうか?」とか言い出し、私を指名。いきなり私はステージに上げられてしまった。そのままキーボード(ピアノとシンセ)の前に連れて行かれ、急遽私もセッションに参加することにあせあせ(飛び散る汗)

バンドで弾くのもステージで演奏するのも、もう5年ぶりくらい。ましてや即興演奏なんて・・・と焦った私は、そのバンドのキーボードプレーヤーのおじさんにピアノで残ってもらって、オルガンの方を弾くことにした。コードはまずはもちろんC(鍵盤奏者にとって、一番簡単なのはコレ)。その後はGで。演奏してるのは私の他にはおじさんやおじいさんとよべる歳の男の人ばかり。人種も白人・黒人・アジア人。まさに老若男女・多人種のステージのできあがり。

演奏が始まると、やっぱり私にもソロが回ってきた。ステージ上で5年ぶりくらいに、しかもいきなりの参加で即興演奏なんてとんでもない、と思っていたのだけど・・・始まってみるとこれがすっごい楽しいexclamation×2まずブルースであるということ、そして久しぶりのバンドでのステージ演奏に参加できたということ。すごい適当な即興ソロだったけど、ほんとちょっとの間だけだったけど、弾きながら気持ちが盛り上がって、本当に楽しかった!やっぱりバンドはいい!ブルースはいい!

気づいたら、キーボードプレーヤーのおじさんは客席に引き下がってくれていて、私はオルガンの方でなくピアノを弾いていた。結局、2曲ほど参加させてもらって終了。

こんな風に飛び入り演奏に参加できるのも、ブルースならではのこと。スリーコード12小節の単純なコード進行の中に、無限の可能性がある。曲の長さも自由自在。色んな即興演奏が生まれる。日本人の私なんかが、初対面の60代の黒人ベーシストや、白人の髭眼鏡おじさんドラマーと突然一緒に演奏することができる。こうしてブルースは人をつなげるんだ・・・とすら思ってしまった。

B.Bやジャニスが演奏したことがあるその舞台で弾けたというだけで満足!もっともっとたくさん練習しよう、と心に決めた、貴重な体験かつオースティンでの大切な思い出になりましたぴかぴか(新しい)
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2009年04月26日

裁判所からのお呼び出し

が、届きました。封書にて。
何かというと、Jury summons。
陪審員召喚状。

アメリカ市民権のない私になんで?と思ったのだけれど、調べてみたら、こっちで免許証のある人から無作為に選ばれるらしい。
どんな抽選方法で選ばれたのか知らないけれど、こんなところでくじ運(?)なんて使いたくなかった。。
もちろん市民権のない私は資格なんてありません。
でも、無視をしたらかなりの罰金がかかるらしいので、ウェブにて返事を。市民権がありますか?との質問に、Noと答えたら、資格がありません、って返ってきた。知ってるよー。

日本でも来月始まる裁判員制度。こんな風に突然呼出状が届くんだなぁと思うと、急に他人事ではない気がしてきました。
私にも、人を裁く機会のある可能性があるってこと。なんか恐ろしいなぁ。
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2009年01月16日

兼用の文化

日本帰国中、何度か参加させていただいてる関西の研究会のデータセッションにて、自分のデータを発表させてもらう機会があった。先月、同じ研究会に行った際、主催者の先生から「ヤスイさんが渡米する前にもう一度やりましょう」と言っていただけたのがきっかけ。

データセッションとは、ビデオに録られたあらゆる種類の会話などのデータについて、みんなであれやこれや推論し合う、というとってもマニアックな会。会話などのインタラクションをこまかーく丁寧に分析していくことで、普通では気づき得ないことがたくさん見えて来ます。

今回提供したデータは、私がオースティンの自宅のダイニングで撮影したもの。幸い参加者たちの興味をそそってくれたらしく、議論は白熱。1時過ぎに始まって、7時半くらいまで絶えることなく展開された。なんとその約6時間半で議論されたのは、たった15秒くらいの会話の断片。秒単位で何度も何度もビデオを再生。これって相当マニアック。。でも、私一人では全く発見できなかったことが、かなり深いレベルでたくさん出てきて、目からウロコ!

ところで、後の飲み会にて「なぜアメリカ行ってる人のデータには、ダイニングテーブルを囲んでの会話データが多いのか」という話になった。とある先生が、「アメリカに行ってる人のデータには、なんとなく共通点があるんだよねぇ」と言って、ダイニングテーブルの存在を指摘したことから始まった話題。みなさんは、
「やっぱりアメリカは夕食パーティーが多いってことだねぇ」とか、
「ダイニングテーブルが単身用アパートにも置けるくらい、広いってことだねぇ」とか、
色々言っておられました。

まぁ、アメリカにはこたつテーブルなるものはないから当たり前と言えば当たり前なのだけど、よく考えると、単身用アパートでのダイニングテーブルって、結構微妙なモノ。食べるためだけのテーブルの存在なんて、実は全然必要ない。

日本だと、一人暮らしの場合、こたつテーブル(かその類)っていう、勉強机にもちゃぶ台にもなっちゃ便利な物があって、ダイニングテーブルは必ずしも買わなければならないものじゃない。それがアメリカだと、テーブルの兼用、って概念ってあまりない気がする。ダイニングにはダイニングテーブル、リビングにはコーヒーテーブル、書斎には勉強用机がある。私のアパートにもリビングの端で、キッチンの向かいのとこにはダイニングスペースなるものがあって、ダイニングテーブルを置くためだけの空間がある。しかも、2人掛け用でなく4人掛けくらいのダイニングテーブルを置いている。食べるためだけのテーブルやソファ座るときのためだけのテーブルが必要だなんて、よく考えたら結構不便。こたつテーブル一つあれば、全て事足りるというのに!なんなら、こたつテーブルで勉強もしちゃうよー。

日本では部屋の兼用もできて、布団を広げれば居間を寝室にすることも可能。でも、アメリカではリビングにベッドが置いてあることなんてない。目的別に部屋がわかれていて、目的別に家具が置いてある。一戸建ての家だったら、「ゲームするための部屋」とか「映画観るためだけの部屋」とかがあるところもある。そんなん、リビングのテレビでしたらいいやん!

結局、アメリカは広いから、兼用なんて必要ないということでしょう・・・。
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2008年03月16日

20代最後の

誕生日だった。木曜日。

20代という年代の、気楽な感じ。まだ不安定で、気ままで、自由。そんな無責任な感じが、実はとても好き。

20代は、特殊な10年だと思う。自立し始めるようでいて、まだ自立しきれない。結婚してなくっても、職を転々としても、貯金がなくても、一人で放浪の旅に出てもまだ許されるような。無責任で自分のことだけ考えて自分のためにだけ生きてても、咎められないような。まだ冒険できる10年という気がする。そんな風に思うのって、私だけかもしれないけれど。

修行期間が長い私は就職だってまだだし、結婚だって20代のうちにする気はないし(諦めにも聞こえるけど…)、もちろん子供もいないし、マイホームだって持ってないし、貯金だって全然だし(学生だし。。)・・・。自分が将来どこで就職してどこに住むかもわかってないし。ほんと、今のことしか考えず、自分のためにしか生きてない毎日。。安定からはほど遠い人生・・・。そんなのって、きっと20代だからまだ許されているようなもんなんだろうな。

20代最後の一年。変に気負いせず、安定した生活を求める課題は30代に持ち越して、気ままで自由な最後のこの一年を、ただただ楽しみたい。って、思う。

‐‐
誕生日自体は、たくさんの人のおかげで盛りだくさんだった。その詳細はまたUP・・・できるかな。
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2007年07月18日

京都限定

いくつか締め切りがあるので、せっかくの日本なのに毎日パソコンに向かう日々。
それでも、先日は友達と会って、楽しい時間が過ごせた。
もうすぐ旅立っちゃう大学時代の友Q(A)と烏丸でランチ。夕方からはその彼氏でもあり私ら二人ともの部の後輩でもあるIくんも加わったので、祇園祭の宵々山の人ごみの中を歩いて、祭り気分に浸った。
お店でも飲んで食べて話して、久しぶりの再会が嬉しかった!人生の楽しみ方が上手な二人は、仕事も趣味も充実してるんよね。音楽もまだまだやってて、ステキやわー。私もまたやりたい熱が高まってしまった。

次の日は祇園祭の宵山。父親の誕生日でもあるので、両親につきあって、また祇園さんに。
菊水鉾に登って、また四条烏丸界隈を歩いて、祭りの雰囲気を味わって、京おばんざいのお料理やさんへ。
両親とお店で食事して飲むのも、結構好き。お父さん、誕生日おめでとう。まだまだ若いよ。

小さい頃からずっと馴染みのある祇園祭は、いつもどっか懐かしくって、やっぱり行きたくなる。毎年思い出がいろいろある。今年のんも、きっと思い出になります。
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2006年07月22日

日本・日本語・日本人

book1.jpg
「日本・日本語・日本人」という本を読んだ。
私が言語についての研究の道に進むきっかけとなったのが、大学時代、鈴木孝夫先生の著作と出会ったこと。
当時、鈴木氏の、言葉に関する目から鱗の話にすっかり虜になった。

この本も、鈴木氏が著者に加わっているということで迷わず選んだのだけど、大正解!
国語学の第一人者ともいえる大野晋先生と、もと新聞記者の森本哲郎氏との共著。
日本の文化や歴史や風土など、日本を取り巻く全てが、日本語という言語の形成に関わっていて、
日本語を知ることは、日本という国や日本人そのものを知ることだと論じられている。
つまり、日本人とは、日本とは何か?ということを、日本語を探ることで明らかにすると同時に、現在の日本の言語教育の問題点を指摘している。
巨匠三人の対談形式なので、スイスイ気楽に読めてしまえるのも、魅力。

個人的な話なのだけれど。
アメリカの大学院に進学して4年目になって、
自分の目的や方向性や夢が曖昧になりかけてることに気づくことがある。
ドクター生として、毎日目の前のこなすべき事柄に忙殺されて、
いつの間にか、ドクターを取得すること自体が「目的」となっていた気がして。
本当は、ドクター取得までに大学院で学んだり身につけたりする全ての物を、将来の自分につなげるための「手段」と考えるべきで、
ドクター取得はあくまでその延長にある「目的」であるべきなのに、
その手段を身につける過程を軽視して、「とにかくドクターを取る」
とかいう、この博士課程を終える目的の方に重点を置きがちだったような。
セメスター中でない今、ゆっくり考える時間ができて、そんなことに気づいて、「じゃあ、私が今経験してることをもっと大切にしなければ」と思うようになった。
自分の体験を全て、意味あるものにしなければ。

実際、今私が体験してることはなんなんだろう、と思う。
時々、アメリカという国に嫌悪感を抱いたり、批判的になってみたり、妙に日本の良さが身に染みたり、かと思えば、自分を含めた日本人の無知に失望したり。
そんなことで、もっと日本を知らなければいけない、と思うようになった。
日本語とは、日本人とは何かを知らなければ、言葉と文化の関係に関する研究の答えなんか出るはずがないと気づいた。
そんな中、この本によって大きく揺さぶられたような。

外国に侵略されたことのないという日本の歩んで来た歴史をたどり、
外国との接触が他国よりも少なかったその地形に注目すると、
日本が、他国とのコミュニケーションが上手くできなかったり、関係が上手く築けなかったり、日本人が外国語を苦手としたりする原因が見えてくるという。
やっぱり日本人にとっては、外国はいつまでも何か「特別な」ものでしかない。

それに加えて、今の日本での中途半端な英語教育と不十分すぎる国語教育。
今のままの教育では、英語ができないだけでなく、日本語もしっかりできない言語不自由者ばかりを産み出すばかりだとか。
国外どころか、国内でもちゃんとしたコミュニケーションが取れなくなってしまうなんて、とっても危険・・・。

これからの日本や日本人を救うには、日本語、日本という国とは何かを知り、それを理解して見つめなおす必要があるということ!
言語にそれほどまでに世の中を変える力があるなんて、スバラシイ!
posted by eiko at 17:26| Comment(9) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月19日

文化が違えば

先日、引き受けてたちょっとした仕事が終わった。やっと。
DVD13本分のデータのコンテントアナリシスとデータエントリー。
結構時間かかったのに、あんまりお金にならないし。。
夏休み中の今は、TAで教える授業もないから、こういうこともやらなけりゃ。
哀しき大学院生の実情・・・。

梅雨で大雨が続いてる。
外に出たくても、あまり出られない。最近はそんな感じ。
11月の学会発表論文の手直しに、わりとゆっくり取り組んでたら、再提出の期日が迫ってることに気づいた。
相方の会社のウェブサイトの日本語翻訳を頼まれた。
確実に、家でパソコン相手じゃなきゃできないことたちばかり。
このままだと、引きこもりまっしぐら・・・。

ところで、この相方のための翻訳。
会社のアピールをしてる内容を、日本語に訳すだけの作業なのだけど。
どうも、そのまま訳すのだけではいいような気はしない。
英語の原文では、「自分たちの会社がどういう会社で、今まで何をやって来て、どういう点で優れていて…」ということが大いに(大げさすぎるくらい)アピールされている。
主体はあくまで「会社側」。
中心は自分たち。
とにかく、「当社の優れた点」「当社の変革と発展」との内容がほとんど。
これに対して、
日本の企業に就職した経験がない私なので間違っているかもしれないけど、日本では、どっちかといえば主体を「お客様」に置くものなのでは?と思えてならない。
「私たちはお客様のためにxxします。お客様のより良い○○のために、△△を提供する会社です」って、顧客側の視点がもっと中心になるのが自然な気がするのだけれど。
だから、日本向けのウェブサイトを作るなら、ただ英文をそのまま日本語に訳すんでなく、こちらの文化的価値感に合わせて視点を変えたコミュニケーション法が必要じゃないのかなあ。
などと思ってみる。

・・・とか、相方の仕事に余計な口を挟みそうになってるのだけど。
これって、頼まれた翻訳がなかなか進まないことの言い訳にしかならないかな・・・。
posted by eiko at 02:26| Comment(5) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月17日

Sushiと寿司

先日の昼、友達とヨガのクラスに行った後、ランチを食べながら、突然その友達と夕ご飯を作ろうという話になった。
「Sushiの作り方を教えてあげる」
と言われた。
ちなみに、彼女はアメリカ人。
アメリカ人が日本人に言うセリフだろうか。
寿司って、日本の食べ物のはずじゃ・・・。

この友人、特に日本に興味を持ってるコでもなく、
おそらく私が始めての日本人の友達、というくらいの普通のアメリカ人。
ただ、食べるのが好きなコなので、アジア料理でも何でも食べる。
もちろん、「Sushi」も好き。
自分で色々料理もするし、自分なりに本を見たりして、アメリカ式Sushiをよく作っているらしい。

私の方はといえば、却って寿司といえば店で食べるものというイメージがあって、自分ではなかなか作らない。
何かパーティーでもない限り、巻き寿司なんてめんどくさいし。
ちらし寿司なら錦糸玉子作ったり、海老をのっけたりして作るけどね。
と思って、「私、Rollって作ったことないわー」
って言ったら、彼女のさっきの言葉。
日本人としての、私の面目丸潰れ?
本人は、アメリカのSushiが日本の寿司とは別物だということを知ってて言ったのかもしれないけど。
私なら、メキシコ人の友達に「タコスの作り方教えてあげる」とか、
ベトナム人の友達に「スプリングロールの作り方教えてあげる」とか、
そんなことは言えないけども。

とにかく、二人でその急な思いつきに大盛り上がりして、ハイテンションでその友達の家に行った。
アンジェラのうちには、日本人の私ですら持ってないような寿司作りキットや大きな炊飯器があって、びっくり。
さらに、私も常備してないような寿司用の海苔やマサゴがあったり、他にもみりんや米酢や黒ゴマやたまり醤油まで置いてあったりで感心。
本日のRollのネタは、スモークサーモン、海老、アボガド、キュウリ。
足りないものを買出しに行って、準備に取り掛かった。
粉になってるインスタントのミソスープと枝豆を前菜に、ワインを飲みつつ準備。
そして、酢飯もいいくらいに冷めて、やっと巻ける段階が来た。

ここからは、とってもユニーク。
「見ててね」
と言われ、巻き始める友達。
とにかくなんでもかんでも材料を全部のせてから、ギューと力を入れて巻く。
途中、あまりの具の多さに、はみ出てくる海老たち。
最後に、みりんを海苔に染み込ませて巻き完了。
大事なのは、盛り付け。
一口大に切って行って、日本風のお皿に盛り付ける。
その上にオレンジ色のマサゴを乗せたら、フシギと結構いい感じ。
と思ったら、その上からなぜか彼女はワサビとかつおのふりかけを豪快にふりかけていった。
このふりかけには、意味があるんだろうか。
更に、せっかくのたまり醤油にも、みりんとふりかけを混ぜる。
「Soy Sauceは、あまい方がおいしいよね」と。
Sushiが、日本の寿司とは全くかけ離れたものになったことを、今更ながらに実感した瞬間。

アンジェラの旦那さんもまじえて三人でおいしく食した後は、三人でテレビを見たり、テレビゲームを教えてもらったりして、まったりした。
彼女は、私と全く同い年だけど、既婚者。
やさしい旦那さんと毎日こんな風に楽しく料理して食べてるんだろうか、と思ってちょっとあったかい気持ちになった。

楽しいSushi作りの後は、
「ね?簡単でしょ?」
と。
寿司って、日本のもののはずなのに、教えてもらった側になってる私。
日本人としては、複雑なんですが・・・。
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2006年05月07日

日本=アニメ?

今セメも終わりになって、教える授業の方も全部終わった。
日本語の授業を受けてた学生たちは、本当に良く頑張ったと思う。
授業は毎日毎日、週五日。
ほとんどの学生が毎日出席して、宿題も毎日提出して。小テストも毎週受けて、セメスター中三回の筆記試験と二回の口語試験を受けて。
わからないところがあれば、オフィスアワーに質問をしに来て。
みんな本当にまじめにやり遂げていた。

そんな中、特にまじめな、毎回毎回、授業が終わるたびに話しかけに来てくれてた、とある学生Pくん。
彼の日本語への興味は実に明快。
日本のアニメおたくだから。
そんなPくんは、毎日、私にアニメの話をしてくれる。
アメリカでの日本アニメ人気は相当なもので、各地で開催されるアニメコンベンションなるものには、日本の漫画家やらアニメシンガーやらが毎年たくさん来るらしい。
Pくんはもちろん、アニメコンベンションの常連。毎年何度も、各地へと出かける熱心さ。
そして、そのときの経験のすばらしさを、わたしに話して聞かせてくれる。
"You should come to our Anime club!"って誘ってもくれる。
だけれど。
・・・ごめんね。私には、全然わからないんです。
日本人だからって、全員がアニメ好きってわけちゃうのん・・・。
でも、話をしにきてくれるのは嬉しいし、そんな学生はかわいいもの。

こないだは、私のオフィスにパソコン持参でやってきたPくん。
アニメコンベンションで購入したという日本のDVDを見せてくれた。
パソコンの画面に出てきたのは、なんと"Max"のPV。
そうそう、ダンスして歌う、沖縄出身のそんなお姉さんたちいたいた!って思った。
私も忘れかけてるようなそのグループのPVをこのコがなんで?って思ってたら、なぜか、最近アメリカのアニメコンベンションに来てたらしい。
PくんのそのDVDは、彼女達のサイン入り。
かなり活発なアニメファンのこのコ。
ついには、その日の話の最後で、
「今度はコスプレもやってみたいんだ」
と言っていた。

コスプレ。最近、日本のそういう人たちの間で、特に流行ってるらしいと聞きました。メイドカフェ、ってのも聞いたことがある。
きっと、アメリカで日本のアニメ界やアニメファンの情報を仕入れるだけでは、日本でコスプレってのの一般的位置づけがどういうものか、ってのは入ってこないんでしょう。
で、彼はきっと、秋葉原が日本での流行の中心、くらいに思ってるんでしょう。
アニメを通した日本が、彼の知っている日本。
でも、ここは日本語TAとして、日本人として、正しい日本文化を教えるべきか迷うところで。
コスプレとか、そういった間違った日本像を描かれるのはどうかと思ったりもして。
それよりも、かわいい教え子が、コスプレという間違った道に走らないよう、手遅れになる前に軌道修正してあげるべきか、本人の夢を壊さないようにしてあげるべきかも、悩みどころで。

アニメを通してみる日本。
それも日本のありのままの文化の一部であって、「間違った日本」などと考えるべきではないのかしら。
posted by eiko at 15:14| Comment(4) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月18日

アメリカのサービス。日本のサービス。

アメリカって国は、しばらく住んでると、どうしてもイライラさせてくれることが時々ある。
なんといっても、客に対するサービス、対応が最悪!
責任感がないと言うか、誠意がないと言うか。
何でも遅いし。約束も守らないし。

私の家の近くの郵便局。引っ越して来てから、どうも困ったことが多々。
私の住所宛に郵便物が届かず、送り主に返されるケースが多発。
違うアパート宛の手紙が私に届くことも続発。
先日も日本から夏、私が自分で今の住所宛に送った荷物が、なぜか拒否されて送り返されたらしいことがわかった。
なんでも、送り先である私の住所が認識されなかったらしい。
といっても、私が自分で自分の住所を書いたんだから間違えるわけがないし、間違えてない。送るときに30日間の郵便局での保管をリクエストしていた上に、電話番号も記載しておいたのに、何の連絡もなく勝手に日本に送り返されていた。
その荷物があまりにも届かないので、ネット上で検索して、わかった。
早速、地元の郵便局で調べてもらったら、やっぱりもうその郵便局にその荷物は無い、と。送り返された後だった。
30日保管のリクエストは見事に無視。
その事実だけでも十分腹が立つのに、そのときの郵便局員の対応の悪さが更に怒りを追加させてくれた。
謝るなんてもちろんない上、「送り返されたんやからしゃあないやん」とのいばった態度。
私もキレキレだったので色々抗議したら、今度はまるで私が悪いかのような言い草。
それが客に対する態度ですか?責任感とかは、ないんでしょうか?

日本では、母が日本の郵便局に色々問い合わせてくれていた。
送り返された分の輸送費もうちの負担になるらしいので、その輸送費の返金をアメリカ側に問い合わせてくれとのこと。
私は何度か地元郵便局に出向いたり、電話かけたりしていたんやけど。
何度話しても、本当に信じられないくらいの態度の悪さは変わらなかった。
「自分達には関係ない」の一点張り。
「何で私の住所が拒否されて荷物が届かなかったかを知りたい」って言っても、「じゃあ調べて電話する」と言って、電話がかかってきた試しなんてなし。
一人だけ頼りになりそうなスーパーバイザーがいたものの、それ以外は全員ass・・・。
不真面目で、態度対応、最悪。
相方がここに滞在してたときも何度か彼宛の郵便物が送り主に返されたことがあったので、彼も相当頭に来たらしく、今回の私の荷物の件でぶち切れ。封書でオースティン全体のPost Masterに正式な抗議文を提出したりしてた。

そしたら、つい昨日。
もう戻ってこないと諦めていたその荷物が、日本の実家に送り返されて届いたらしい。
わざわざ実家の地元の郵便局課長代理まで訪ねてきて。
「こっちの責任なので、全部費用は負担します」
と言ってきたらしい!!!
だって。
絶対、そちらの郵便局の責任じゃありませんよ?
テキサス、オースティンのこの郵便局XX支局のせいですよ?
特に、うちのアパートにいつも郵便物届けにくる、あの郵便男の!
なのに。
課長代理までが自ら出向くなんて!
しかも、自らの不手際を認めるなんて!
で、費用全額負担までって!

そして更に。
今日、また課長代理が出向いて、その荷物を航空便で再発送しに来てくれたのだとか。
・・・。驚いた。
その誠実で丁寧で親切な対応に、感動。感謝。
民営化されることが影響か知らないけど。
日本のサービスの(異常なまでの)凄さを、改めて認識。
アメリカのそれとの大きな違いをまざまざと感じて、衝撃を受けた。

この地元郵便局の接客の悪さを、アメリカ人全員に一般化するように言うのは本意ではない。ミシガンにいたときの地元の郵便局は親切だった。
ただ、何かにつけて思うのは、「接客態度」とか「客へのサービス」とか「客への責任感」というものに対するコンセプトには、日米間では恐ろしく違いがあるらしい、ということ。
この国には親切な人は溢れるほどいるのに、仕事上になると客が困っていても気にならないらしい。
待たせるのも平気。不手際も認めない。知らないことは、知らない。
この文化的違いに関わるのは、協調を重んじる国と、「自分のことは自分の責任で」の個人主義の国との違いということなのかもしれない。
日本で期待できることを、アメリカでも期待できると思うな、ってことなんだろうか。
posted by eiko at 15:37| Comment(2) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月13日

アメリカの葛藤。

年末は日本に帰るけども、帰る度に感じるのは、マジョリティーになる意味の大きさ。
自分が、その場所でいう「大多数」に属する存在だということ。
誰も私の存在に疑問を持たないという環境。
別に、私は普段アメリカにいて、「私はガイジンだ。みんなとはチガウ」と思いながら生きているわけではない。
アメリカという国は、自分がよそ者であることを意識させない空気があるにはある。
でも、それでもやっぱり「違う者」として見られていることを意識せざるを得ないことは多々ある。
もともとの言語や文化を共有していないことはもちろんだし、周りの中で私一人だけアジア人だという場が多々あることとか。
道を歩いててもどこにいても、周りとは完全にとけ込まないんだろうこととか。
意識してないと思ってても、一緒ではない人たちの中で生活している中での制限とか圧迫とかはやっぱりあるらしい。
日本に帰って、自分が急に「当たり前の存在」になったときに、ひしひしと実感するものです。
自分がきれいに混ざりあって、見えなくなるようなことが、どれほど大切なことかを。
どれほど自由で、のびのびできて、心地よいものであるかということを。
自分がぴったりとはまる場所に戻る満足感。
自分はここにいていいんだ、と感じる安心感。
自分の属する場所を確認できるありがたさ。

それを思うと、どうしても考えることがある。
アメリカのマイノリティーの人種の人たちは、その「マジョリティー感」を感じることがあるんだろうか。
自分が誰から見ても「当たり前」であるという環境はあるんだろうか。
アメリカにいるアジアンアメリカンや、アフリカンアメリカンの人たちは、この伸び伸び感を感じれることがあるんだろうか。
そういった人たちは、アメリカで生まれ育ったアメリカ人なわけだから、文化も言葉もアメリカのものを持ってて。
例えば中国系アメリカンの人が中国に行っても、アフリカンアメリカンの人がアフリカに行っても、その人自身の文化に戻ったことにはならなくて。
つまり、世界中のどこに行っても、決して多数派にはなれないということで。
マイノリティーという立場は絶対的であるということじゃないか。
常に心のどこかで、無意識であっても、「自分は他とは違う」と思って生きていかなければならないんじゃないんだろうか。
日本に帰ったときの自分の「マジョリティー感」の心地良さと安心感を思うと、一生つきまとうマイノリティー感の辛さは想像ができない。
「違う」という目を逃れられない、アメリカの非白人の人たちの葛藤の大きさを感じさせられてしまう。

アメリカという国に住めば住むほど実感すること。
アメリカは多様性の国自由の国、と言われるけど、実は全然そうではないということ。
日本と同じだと思うくらい、単一文化、単一人種、単一言語の国。
結局はアメリカは、白人の、英語の、キリスト教の社会であって、それ以外の人たちは完全には自由にはなれないし、同様の権利は持つことはできない。
こんなにも様々な人種、言語、宗教を持つ人口を抱える国なのに、この状況は不思議だし、残念でもある。
多数の人種や言語や文化や宗教が全て平等に、当たり前に扱われるような国家は可能にはならないんだろうか。
アメリカのマイノリティーの葛藤は、まさにアメリカの国そのものの葛藤でもあるんだろうな。
posted by eiko at 19:03| Comment(4) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月06日

Austinでのゲイ結婚問題論争

アメリカの中でも保守的だと言われる南部に位置するテキサスだけど。
オースティンはリベラルな町として知られている。
大きな大学があるせいだろうか。
リベラルというからには、住む人間の人種や職種も幅広い。
特にゲイが多いのも特徴の一つ。
もうゲイの人がどう、とかいう時世でもないけども。アメリカでも、日本でも。

ここ数年、アメリカではSame sex marriage 同姓間結婚が議論の的になってるけれども。
同姓間の結婚を禁止するProposition 2に対する投票が始まった最近は、ちょっとすごい。
巻き起こされている論争は、多くの支持を得ているものから的外れなものまで。
リベラルでゲイの人が多いオースティンでも、例外なく多くの動きがある。
今日は、全米でも知られる大きな保守団体、KKK(クークラックスクラン:もちろん、黒人差別問題のオリジナルKKKから名前を取っている)がオースティンにやってきて、大々的にゲイ結婚反対のデモを繰り広げていた。
そして、乱暴なだけのKKKに立ち向かうため、同姓結婚賛成を唱えるアクティビスト達も集まり、シティホール周辺は大きな群集ができていた模様。

私の学部の教授にも社会問題のアクティビストの人がいて、学生数人と共にKKKへの抗議活動に参加していた。
社会問題のレトリックを研究しているその教授。
いわゆる学者としてのエキスパートだけにとどまらず、アクティビストとして実際に現実の中にも飛び込んでいる人。
つくづくうちは、様々なカラーの教授陣だなとも思う。
それにしても、政治に無関心な若者が多いのはアメリカも日本と同様としても、社会問題に関する関心は、アメリカの若者の方が断然高い気がしてならない。
宗教が無い国日本では、人々を動かす信仰がないということなのかもしれない。
日本では、どんなレトリックが人を動かす力を持つんだろう。
(と、レトリック批判のクラスを取ってる関係上、思ってみたりする。)
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2005年10月03日

オースティンという町

夕日の綺麗な街だ、と思う。
オースティンは、晴れてる日が多い。
この週末も、川に映る夕焼けが見れた。
まだ100度くらい(摂氏40度前後?)の気温が続くオースティンは、天気が良くて外に出たくなる。

この週末は、相方のオースティン滞在最後の週末なので、ちょっとお出かけ。
土曜の夜は久しぶりに、6thストリートのバーに行った。
オースティンの週末の夜の5th、6thストリートあたりは本当にすごい。凄まじい。
なにかのお祭り?と思うくらいの人の多さ。
道に無限に並ぶバーに集う人たちのための歩行者天国。
道は間違いなく酔っ払いで埋め尽くされる。
店それぞれから聞こえるすごい音楽の量と、人々のはしゃぐ声。
にぎやかすぎる夜のダウンタウン。
しかも、10月あたまだというのに、外のパティオで飲めるのは気持ちがいい。
二階のパティオで景色を楽しみながら、ゆっくり飲むビール。
平日が凄まじい分、その幸せが余計に身にしみる。
って、なんかおっさんくさいかなあ・・・。

ランス・アームストロングのイベントもあった。
癌を乗り越えての7回の優勝経験を持つ自転車選手のアームストロングが、愛する街オースティンへの感謝を表わすお祭りで。
その婚約者シェリル・クロウもコンサートをしていってくれた。
二人は、お互いにそれぞれ活躍する場を持っている、本当にいいカップルだと思った。
癌を克服しての奇跡の七回優勝した本人を目の前にして、その強さを感じてジーンときた。
アームストロングは本当にオースティンを愛しているようで、何度もこの街の良さを語っていて。
私も、この街に来てよかった、と改めて思った。
イベントの帰り道はすっかり夕日が綺麗で。
私もだんだんこの街が好きになってきた、と思った。
posted by eiko at 13:16| Comment(0) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年12月07日

アメリカでの「飲みに行く」

<body><p><a href="http://members.at.infoseek.co.jp/eternity3/12-06.1.jpg"><img border="2" src="http://members.at.infoseek.co.jp/eternity3/12-06.1_small.jpg" xthumbnail-orig-image="12-06.1.jpg" width="100" height="75"></a></p></body>↑バーに行く前。Trinity, Anna and me

こっちに来てから出来るようになったことの一つ。
二日連続で飲めるようになったこと。

こっちの人にとっては金曜の晩は土曜の夜以上の「夜遊びに行く」ムードの漂うとき。日本の土曜の夜並みに。
そして、もちろん土曜の晩もやっぱり週末なわけだから、夜の街は騒がしくなる。
つまり、金曜土曜と二日間が遊べる週末、というのがこっちでは普通といった感じ。
そうは言っても、本当に毎週二日連続で夜遊びに出かけるほどの暇人はそうそういないとは思うけども。
ちなみに日本でも金曜の晩も週末の夜の雰囲気かもしれないけど、こっちでは金曜の夜の方が、土曜の夜よりも重視されてる感がある気がするのです。

でもとにかくそういうわけで、私も金曜土曜の二日連続で遊びに行くような遊び過ぎの週末がときどきがあって。
もちろん、日本にいるときもそういったことは何回かはあったけれども、でもどうしてもできなかったのが、二日連続で飲む、ということ。
金曜飲みに行ったら、土曜日にも飲むほど胃が元気じゃなかった気がする。
飲みにいく、ってなったらたいていは居酒屋。そうなるとどうしても本格的に飲むし。
それが、アメリカに来てから、普通に二日連続で飲めるようになった(って、たいしたことでも、自慢できることでも、なんでもないけど)。

アメリカで「飲みにいく」っていうのは、日本のそれとは少し違う。
日本だと居酒屋に行くと、絶対に「食べる+飲む」がセットなのは当たり前。
居酒屋に行って、飲み物だけを注文してそれで終わり、って人はまずいないと思う。
アメリカだと事情が少し違っていて、もちろん居酒屋なんてない、っていうのもあるけれど、バーに飲みに行く、ってなると本当に「飲みにいく」だけ。
たいていは一人一人個別に飲み物を注文して、飲みながらしゃべるか踊るか。
飲み物の買い方も、一人一人がばらばらに飲み物と引き換えにお金を払うのが普通なので、日本での居酒屋とかみたいにテーブルで幾ら、っていう計算じゃない(そういう支払い方も可能だけど)。
だから、自分のペースで飲めるわけで、1杯2杯しか飲まない、なんてこともしばしば。
それだからか、2日連続飲み、というのも可能になってくるということ(って言っても、二日連続飲みで二日ともかなりの量、っていうのも可能になった気もするけども)。

今学期のテストやペーパーやプレゼンがほとんど終わってしまって、比較的余裕のあった今週末は、そんな二日連続飲み、の週末になってしまった。
ペーパーやらテストやらの攻撃で、怒涛の何週間があったので、結構久しぶりのこの余裕。
金曜は、ジャパンクラブのスタッフ飲み。会長宅にてのポットラック。
たぶんたくさんの日本人と(っていっても7人くらいだけど)集まってパーティーをしたのは、こっちに来て3回目かそれくらいのことだったと思う。
日本への一時帰国を目の前にして日本モードが高まっている今、なんかもう一足先に日本に到着したみたいな新鮮さがあった。
地べたに座って、みんなで輪になって、っていうスタイル。やっぱりみんなで空間を共有し合えて、楽しい。

土曜日は、夜になってからいきなりバーに行くことになった。
というのも、今週末はルームメイトの一人、アンナと過ごす最後の週末。彼女はこの12月で卒業で、引っ越していってしまう。
そんなわけもあって他も誘って数人とバーへ。
四人ともがちゃんと揃って出かけられたのは、嬉しかった。

それにしても、バーに出かける前に、家で何人かとかなりの量を飲んで行ってしまったせいもあって、バーにて2杯しか飲まなかったのにも関わらず、やばかった。迷惑かけて、お世話になった…。
やっぱり、何も食べずに飲むだけ、っていうこっちのバーでの飲み方はあんまりよくないかもしれない、と思う。
日本にいるときは、何も食べずに飲む、ってことが絶対にできなかったのに。

日本まであと三日。
ペーパー早く完成させないと…。
posted by eiko at 17:45| Comment(0) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年11月29日

アメリカ人のヨメとシュウトメ

アメリカ人一家と過ごさせてもらって、きづいたことがもう一つ。
この家が特殊なだけだったのかもしれないけど、嫁と姑の関係が、日本でのそれとはもうずいぶんと違うということ。
たぶん、概念からして違うのでしょうね。その、嫁は姑に気を使わなくてはならない、という日本の常識からして。
まあ、言葉にはっきりと表れる丁寧表現、敬語表現が英語にはないせいで、友達のようにしゃべっているように見える、ということもあるのだけれど、そういう言葉のフォームの違いだけではない。
本当に友達みたいなんです。言うこととかも。
だって、トリニティーの義理のお姉さん、お義母さんに向かって、「ちゃうってば、何言ってんのさ」的な表現、言い方、態度とかがあったり、「やめてよ、冗談やって」的なことも言ってる。
お義父さんに対しても、同じ感じで、お義父さんが「コーヒーを飲みたい」って言ったら、「自分で作りー」とか言ってるし。
初めはちょっと驚いたけど、コンセプトからして違うのね、ってことで納得。
だって、『お舅さんたちのお家にお嫁に来た』なんていう概念がなければ、気を使う、なんて発想も湧かないはず。

おもしろい発見ではありました。
お家制度を重んじる日本と、「家意識」なんてものがないアメリカとの違いは、嫁姑の関係にまで影響しているようです。
posted by eiko at 01:43| Comment(0) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Individualism

ということで、Thanks Giving Breakはトリニティーの一家とともに3泊過ごさせてもらったんやけれど、その過ごしやすかったこと!
というのも、家族水入らず、ってなるはずのところに私ひとりだけが、家族の一員でもなければ国籍も人種も違う異邦人。
これって、私結構いづらい気持ちになるんじゃないの、って初めは正直思っていた。
しかし、実際はそんなことは微塵もなく。
ありえないくらいの過ごしやすさでした。
なんか、誰も気なんか使わない。誰も他人の私がいることを気にもしないというか。
変に気を使ってこないから、こっちも逆に気をつかわなくてもいいという雰囲気。
これが日本人の中だと、「お茶でも飲む?」とか、もし所在無さげにしてたら、「好きに座っててね」とか。どうしてもお客さん扱い。
逆にこっちは泊まらせてもらってる身だからということで、「手伝いましょうか」とか、何事にも「すみません。どうも」って感じ。
他人の家におじゃましてます感が強くて、くつろげる感じはしなさそう。
そして家族全員の方もなんかいつもと違う感じになったりとかで、自由に振舞えなかったり。

今回は、本当にみんなフレンドリーで、いい感じに適当で、助かりました。
普通だったら、私半分ソファーで寝そべってテレビ観たり、ダイニングのテーブルでお菓子勝手につまみながら急にパソコンいじりだしたり、なんてことはできないはず。
お母さん以外はみんな初対面っていう、初めてお邪魔するお宅で。

思えば、やっぱりそこは、グループを重んじるコレクティビズムの日本人とは違う、インディビジュアリズムのせいなのか、アメリカ人はすぐに誰でも仲間に入れたがるし、それを当然だと思っている感がある。
例えば、バーに行くときなんかがそう。
友達数人とバーに行こう、って話になったら、必ずそれぞれみんなまた別の友達を連れて来、また更にその友達がその友達を連れてきたりするので、本当に初対面の人たちとわんさか一緒にバーに行く、というパターンが当たり前。
だから、こっちに来て、友達の友達の…というパターンで知り合いや友人がかなり増えたし、すっごく出会いが多い(その場一回きりの出会いっていうことは少なく無いけど)。

これはバーに行くときだけに限らず、なんかある際にはみんな構わず友達を当然のように呼ぶので、分け隔てない。固定のグループ意識、というものがないのだと思う。
先日、アンナに連れられてテールゲイトしに行ったときも、「私明日テイルゲイトしに行くけど、来る?」、っていう感じで、フツーに誘ってくれたし。
そして、現場に着いたら着いたで、みんな「始めましてー」、ってこれまた普通。
そして、普通に仲間に入れてくれるのです。

なんか、日本のように、固定の集団での団結とか、仲間意識とか、そういう一致団結した絆とか、っていうのも大好きなんだけれど、こういうわけ隔てなく誰でも受け入れる姿勢は、アメリカ人の国民性の中で、結構好きな部分の一つだったりするのだ。
posted by eiko at 01:24| Comment(0) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年10月28日

アメリカ人作。の日本食。

月曜の夜。4-7時の授業が終わった後、前のルームメイトが夕食に呼んでくれた。
この、私が以前住んでいたCo-opという形式の家では、学期中は毎日家の食事当番が、全員分の食事を作る。
月曜はメリッサの担当。
彼女は高校の時に1週間だけ日本にホームステイしたことがあるので、少しだけ日本のことを知っている。
今日は日本食を作ったから、食べにきて、とのこと。
おうどんとおにぎりを作ったっていうから、私もどんなのが出来たんだろうと興味深々で行ってみた。

いえいえ。実に微笑ましいというか。
かわいかったです。間違え方とか。
まず、うどんは、つけ麺タイプなので、麺がざるにあげてあったのだけど、なんだかそばみたいな麺だった。明らかにうどんではないことは確か。
そして、ポイントはつゆなのだけど、これがどうも「うどんつゆ」ではない。
作り方をネットで調べたというんだけど、酢がなかったから、Apple cider vinegerを使ったという。
そして、どうもそれにしょうゆを混ぜたらしいんだけど…。
めんつゆに酢なんて普通いれないし。どういうつゆなんだろう、と疑問に思いつつ。
そして、予想どうり、食べたことのない味。
レシピになんて載ってたのか知らないけど、これはエスニックスタイルにしてあるのかしら、とか思っていた。それか、私が知らなかっただけで、どこかにこういう味のうどんがあるのかなあ、とも。
なのでメリッサに、これって、あってる?って聞かれても、「このタイプは初めて食べるわー」と答えていた。
そして、おにぎり。
コンセプトは合ってると思う。きっと高校のときに日本で食べたおにぎりのイメージを必死で思い出して作ったんだろうなぁと、うかがえる。
三角っぽい形で、のりが全体に巻いてあるものの、立体ではなく、ほとんど平面。
そして、最大のポイントは、おにぎりの具が梅ではなく、果物のプラム(ほとんど桃みたいな果物)だったこと。
なるほど。梅=プラムだけどもさ。
甘い果物が中に入った、平たいおにぎりは興味深し。。

最後にうどんつゆのレシピをみせてもらってきづいたこと。
「mirin (sweet rice wine)」としょうゆとだしを混ぜると書いてある。
私の知ってるつゆの作り方そのもの。
って。
sweet rice wine を、vineger(酢)って解釈しちゃったわけね。
しかも、rice vineger でなくって、 apple cider vineger。。
そりゃ、新しいうどんの出来上がりなはずだわー。

そうかそうか。日本食って、知らない人が作ったら、未知の世界なのね。
そして、全然違う解釈も可能なんやねえ。

でも、今のルームメイトたちが全く日本食というものを知らないし理解してない人たちなので、こうして日本食に親しもうとする、っていうか、興味を示す友達の存在は実際、とても嬉しい!
今度のポットラックでは、日本食をお料理して持って行くことに決定ー。
posted by eiko at 02:51| Comment(1) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年10月01日

Can we "see" the culture?ー文化は「見える」?

マスター論文のテーマ決め…。そろそろ本格的に何を研究したいか、具体化していかなければならない。研究テーマに関しては、大学院に入って以来、ずっと考え続けてきてることだけれど。

焦点は、コミュニケーション上の、言語使用の側面。
異文化間コミュニケーションにおける、言語の使用。
特定の言語現象における、異文化間の傾向の違い。
そして異文化間のその違いゆえにおこる、コミュニケーション上の摩擦。
私の興味のあるのは、こんなところ。

でも、ときどき、ジレンマを感じてしまう。

テーマを決めるにあたって、まず自分の周りで起こる現象に着目して来た。
‘異文化間コミュニケーション’を地で実践しつつ、もちろん違いを感じて小さな誤解を招くこともあったし、ささいな違いにおもしろさを見出すことも数多くある。

けれど。

それを「文化」という枠でくくってしまうことに、文化の違いゆえの違いだと、単純に結論付けてしまうことに、疑問を感じてしまう側面も、否めずにいる。
「個人」の前に、「文化」を持ってきていいものだろうか。
誰かの行動は、全て文化を反映しているものだと捉えていいものか。

こっちに来て、文化の違う人々とたくさん接してきた。
その中でもっと感じるのは、期待していた「違い」よりも、「同じ」。
文化どうこういうよりも、「人はひと」だということだった。
もちろん文化の違いは大きく関わっている。その違いからおこる考え方の違いもある。
でも、考え方の違いが全て文化に帰するわけではない。人の性質の違いも、文化によるものだけではない。
ずうずうしい日本人だっているし、内気なアメリカ人だってたくさんいる。
基本的に、一つの傾向を、大きなグループに一般化するのは簡単なこと。そして、それゆえに、「ステレオタイプ」なるものが生まれてしまう。

わたしはステレオタイプというものが、どうしても、嫌い。
自分が、「日本人」のステレオタイプを通してしか扱われなかったときが、特に嫌い。
わたし個人の性格を尊重されずに、それを「文化」のせいだと捉えられる。自分の行動一つひとつに対して、「日本人って…」とコメントされる。私の前に、「文化」というフィルターを置かれてしまう。
私個人のパーソナリティーの問題なのに、「そんな日本人的なことは、アメリカでは捨てないと」って言われたり。
「日本人的」って?
きっと、「これが日本人です」像のことなんだろうけれど。そうそう、「ステレオタイプ」ですか。
かなしくも、一つの文化をひとくくりにしてしかモノや人を見ることが出来ない人は、意外とたくさんいたりするもので。
そして、自分も知らぬ間に、「ステレオタイプ」で、他人を見ていたりもするもので。

それだからこそ、「文化」を考えることはなかなか難しい、と思う。
人の言語使用行動の中に、「文化」を見出す。特定の文化に見られる、特定の傾向。
その発見はとってもおもしろいのだけれど、全てを単純に「文化」に帰してしまわないように。
単に「ことば」にだけ焦点を当てることができれば、もっと簡単。でも、コミュニケーション学をやる上では、どうしても「人間」が関わってしまう。

「文化」は目に見えるのか・・・これは、とても大きな課題だと、実感する。
posted by eiko at 01:13| Comment(0) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年09月22日

Strange Americans (?)

大学の公式サイトとは別に、うちの大学、MSUの学生、スタッフ、教授のための娯楽中心のウェブサイトがある。
教授の批評、大学周辺のアパートの批評、イベント情報、デートの相手募集、物の売り買いの情報中心のクラシファイド、とコンテンツは色々なので、私もたまにチェックしている。

それで、今日何気なくそのサイトのクラシファイドのofferingを見てみたら、最新の投稿で、
「宿題をする時間がない?」
という題名のものが。
読んでみると、自分はもう授業をとっていないため時間があるので、宿題をあなたのためにやってあげます、というもの。もちろん、報酬をもらって。
つまり、宿題を代わりにやるアルバイト、のオファーの広告だったわけで。
しかも、自分は勉強意欲があるからこの仕事をやってみたい、的な理由づけ。
宿題は本人がやらなきゃ意味ないやん!、などとつっこみたくなるどころか、「ほんっとに、いろんなこと考える人がいるなあ…」、と逆に感心すらしてしまった感じ。宿題代わりにやって、金もうけって。しかも、大学生にもなって、真剣に考えるあたりが、ほんと、あきれてしまう。
さっすが、アメリカ人。なんでもあり、やねえ。
先日も、「なんでもいいから、やります。報酬は応相談」みたいな投稿があったし。
「なんでもいい」の「なんでも」には、宿題もきっと含まれているのでしょう。
…その前に、普通にバイト探せば?って思うのは、私だけじゃないはず。

こういうことって、思いついたとしても、あまりに幼稚すぎて実際に真剣に投稿とかって、なかなかできないものじゃないだろうか。
それに、宿題はたいてい提出があって、ポイントが課されるもの。だから、きちんと答えられていなければならない。大概、大量のリーディングが伴う。
あんた、本当に信用できるの?ってとこも、怪しいところ。

アメリカ人だから、っていう文化のカテゴライズはするべきじゃないんだろうけれど。でも、それにしても、妙なこと考える人がわりといるというか。さすが、アメリカ人っていうか。ちょっとばかっぽくって、あきれてしまうっていうか。
日本人の学生にも似たような奴はいるものなんだろうか…。

それにしても、これに真剣に返事を書いた人間がいるのかどうかも気になるところ。
この調子じゃ、いそうだけどね…。
(英語では書けない)
posted by eiko at 05:02| Comment(0) | Culture | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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